(雑音により聞き取りにくい)
昭和46年10月01日 月次祭
私はあの、御湿りの音を聞かせて頂いておりますと、もうどこまで深いか分からない、どこから湧いて来る本当にどこから湧いて来るか分からん、信心の喜びでございましょうかね、湧いてまいります。そしてまた大風が吹きましたり、雷様が鳴ったり、自然は私共に人間氏子の上に、様々にあの手この手を持って、どうぞおかげを受けてくれよ、信心して幸せになってくれよと、言う様な神様の願いというものを、自然のままの働きの中に示して下さる。
いわゆる、最近公害が大変喧しく言われて、また事実その公害のためにみんなが難渋いたしております。けれども私はここを本当に分らせて頂かなければならない事はです、天地の親神様のご恩恵、お働きというものにです、私共が横着する。段々その思いがうすうなる。天地の御御徳とかご恩恵と言った様なものはもう当たり前のようになる。そう言う様な所からただ人間の知恵とか力とか才覚だけで生きていこうとする。
幸せになろうと、まああがき求めておる人間のそういう姿の上に神様がああしたお気づけというかお叱りを受けているように思う。ですからこれは私自身、身の縮む思いがするということだけではなくて、社会の例えばお粗末ご無礼、人間総氏子が犯しておるところのまた気付いていない所のお粗末ご無礼に対してもう、心からお詫びをさせて頂かねばおられない、それで、身の縮む思いがするのでございますが、どうでしょうか皆さん、そんな、気持ちになられた事はないでしょうか。
今朝から「悪い事を言うて待つな先を楽しめ」という御神訓に基いて御理解を頂きました。私共が悪いことをいう、不平をいう不足をいう、と言う事がどういう結果になるか、これは今朝の御理解で申しますと、これは天地の大真理か、そういう意味の言葉で頂きました。不平不足を言う人は、必ず不平不足を言わねばならないような、はめに落ちて行くことになるのです。悪いことを言うて待つな、お先真っ暗、先はどげんなるか分からんがのちいいよると本当にどげんなるか分からん様な事になるのです。
ですからそれと反対にです、全てを有難いもったいないというて過ごさせてもらえば間違い無く有難く、本当にもったいないことじゃなというて、言えれる結果が必ずそうしてまいります。これはもう宇宙の原則でもあります。大真理です。そこん所をあらゆる宗教は説いてあるのであり、また、宗教家はそこん所を力説いたすわけであります。教祖様もやっぱり此の方の道は有難い有難いで開けた道じゃから、有難いでは苦労はさせんと仰せられております。
ですから本気で腹は立てんぞと人の悪口なんかは言わんぞと例えば決め込ませていただいて、それを本気で修行しておる人はだんだんおかげを受けます。それだけでも。それがです、そういう心の状態がだんだん開けて来る事が信心が開けてくる事でありそういう心の状態が育っていく事が信心が育って行くと言う事になるのです。昨日あの30日の月末の月末のお礼をさせて頂いた後、参り合わせたものばっかりでこの御広前に大きく輪をかいて毎月月の最後の日には、一月の御礼を皆で申させてもらいます。
そして信心のいうならよもやま話、まあ共励もあればいわゆるよもやま話もある。まあ、それを一時間あまりを( ? )福岡の秋永嘉郎さんがこういう事を話しておりました。先日から私が秋永先生のご招待で御芝居を夫婦で招待を受けました。帰りは大変有名な支那料理で支那料理をおごちそうになりました。その時の事を言っているわけなんです。皆たってしまって、私靴下を見つからなかったから遅れた訳なんです。
家内と2人。靴下をはきながら、はかせて貰いながら、とてもおかあさん有難い事をというて私が言うとったのを丁度、迎えにきてくれた嘉郎さんが聞いた。いつも先生がいわれる、奥さんとお2人になられて言われる事はもう、どげん考えても有難い事。それが私に内容がないから意味が分かりませんけれども、その親先生達ご夫婦が有難い有難いというておられる雰囲気の中で私まで有り難うなってきたというておられます。これは事実そうなのです。
それは成程現在このようなおかげをいただいておるから御芝居を見せてもろうた、お御馳走を頂いて有難い事は間違いない事だろうけれども、はあちょっと今日の御芝居は面白かった、今日の支那料理は美味しかっただけですまされるかもしれません。けれどもそれとは違ったいみなんです。どげん考えたっちゃお母さん有難い事ばい。しかもそれがもう今晩ぎりでもう御米がなくなりましたよと、もう家族中で今晩たきました、御米が無くなりましたがと私に告げますと私は申しておりました。
今日までこうしておかげを受けたのであるから、今日までのお礼申させて頂けば明日の事はもう明日の事。神様に御任せしての明日でなければならん。明日は明日で神様がどういう手でおかげを下さろうかと心が何とはなしにはずんでくる。これは私共の食うか食わぬかと言うぐらいじゃない、やっぱ食うかあ食うかです。けれどもね、本当にね今晩食べてしまうと明日何を食べようか、さあどうしようか。
隣から米一升借ってこいというのではなくて、今日までこうしておかげを頂いたのであるから明日は明日神様の働きを頂く事をです、もう心のなかで楽しんでおる。どういう手で神様はおかげを下さるであろうかと言う様なものがある。昨日を忘れ今日を楽しみ明日を楽しませて貰うというのが、これはもうそう言う事だと思うのです。神様の働きという物を信じなければ明日は楽しまん。
それこそ暗澹たる日々でありましょうね。どうしたなら毎日毎日こういう難儀な中に過ごさなければならんだろうかと言う事でありましょうね。さあ明日子供達に弁当を持たせてやられん、と思うならそれこそ夜は眠れないでしょう。けれどもね、そういう中に日々神様の間違い無い御働きを頂いたのでありますから、今日までおかげを受けてきたこの事をお礼を申し上げていき、明日は明日神様がどういう手でおかげを下さろうか、どういうご演出で私共を食べさせて下さるだろうかと思うただけで心がはずむ。
これは、( ? )。だからその時代からどんなに考えてもお母さん有難いなあ、有難い事バイとこれだけで一切の問題が解決したね。私は信心とは結局有難くならせて頂く稽古だと。それにはです、私共がやはり稽古させてもらう。じっと目をつぶっておしめりの音を聞かせていただいて天地の働きのすさまじさ、素晴らしさ、そういう素晴らしい御働きの中に、又はすさまじいまでの天地の働きの中に今日御生かしのおかげをいただいていると言う事がです、生命今日ありて生かされてあり。
( ? )事の有難き事かなと言うことになるのです。目が覚めたと言う事は、本当に有難い事。先日ある教会、( ? )先生がお参りになる。その先生にどげなん御取次をさせて頂くときに、信者が御かげ頂いて有り難うございましたというてお礼に出てくるときに信者はまあいうならば千も万もの思いで御礼言わねばならんのを50か100ぐらいな有難さしかいいよらんばい。
( ? )御かげ頂きました、広大な御かげ頂きました、おかげで命拾いしましたなんていいよるけれども、実際は50か100ぐらいの思いでおる。だからそういう所を引き受けたときにもう、取次ぎ者が千も万もの思いで神様にお礼を申し上げねばおかげは受けられんよち、はあそげな御取次のあり方がありましたねというておりました。又事実そうなんです。ほんなこつあんたもう、自動車にね息子が、四人乗せて無免許で走りよった時そのコンクリートの壁にぶつけた。
もう自動車はむちゃくちゃになってしもうた。向うの壁の塀もこうやって半分崩れかかった。おかげで命拾いしましたというてから御礼に出て来とるけんほんなことどのぐらいありがたいかと思うたら500円かつか1000円かつぐらいしか有難いとおもうとらんもん。そして、金は大分取れれる、自転車はもう向こうの塀を修理しやらにゃん、それが幾らくらいも掛るかもうそれのほうがもう苦になっておる。
ですからそのくらいな有難さしかないのですから、取り次がせて頂く者が本当に4人も5人ものが本当にけがもせづ、いわば無事ででおかげを受けた事をです、もうそれこそ千も万もの思いで神様に取り次がせてもらい、お礼を言わせてもらわないけんよと、そういう例えばおかげを受けて、今日もさっきから松岡さんが夕方から親子三人で参ってきました。そしてから、娘のお願いばっかりしたせんから、私は申しました。この頃、昨日おととい竹葉会。28日の日。
広大なおかげ頂きながら、おかげをおかげと実感しきらないというのはどう言う事だろうか、おかげをおかげとしてほんとにキャッチ出来ないと言う事はどう言う事であろうか。おかげを受けておるのは事実なのだけれども、それを感じきらないその心が、かんじきらない千も万もの思いで有難いなぁと思うたら、もうそれには千も万ものおかげが頂けるのです、これは間違いないです、50有難いと思うたら50がた、千も万も有難いほんとのことを言うたら千も万もどころじゃないですけれどもです。
そこの所の有難いと思わせて頂く心を育てると言う事が信心だと言う事。今日私は午後の奉仕をさせて頂いておる時、丁度井筒屋から大きな封筒が来とりました、開いてみたら中から朝鮮ニンジンが直接朝鮮から入りましたから、わずかの方にお分けすると言う事であった、それを読ませて頂いとったら飲まにゃおられんごと効能が書いてある、朝鮮ニンジンといや昔から神秘的な栄光があると言う事で有名であります。
しかもこうして乾きますとこの乾くと言う事には大変効果があると言う事で、私もちょっと心が動いた、月に12,000位の朝鮮ニンジンを煎じて飲めば、もうあらゆる万病に効くと言う訳です。しかもこうして乾くと言う事に非常に非常に効果があると言う事だから、それを飲むと言う事と飲まないと言う事はどういう事であろうかと思うて、私御祈念をさして頂いた、そしたらね、朝鮮ニンジンを引き抜いたばかりの姿でしょう、もうこんなにもその小根が一杯はった朝鮮ニンジンを頂いた。
真っ赤な花がさいてねそしてそれに、朝鮮ニンジンと漢字で書いてある所を頂いた、成程飲むと言う事はそれは矢張り昔からいろいろ効果があるけれども信心をさして頂いておる者は、それよりも何よりも朝のすがすがしさ、朝鮮とは朝の鮮やかさと書いてあるでしょう。例えて言うならばあたしが朝の御祈念に出て来る、あの3時半から4時までのあの気持ちというならいうても良いでしょう。皆さんで言うならさあもう4時になったさあお参りというて準備をして合楽へ合楽へと皆さんが通うて見える。
そして駆け足のような気持ちでここへ朝参りに見えられる、そして有難い御祈念をさしてもらう、有難い御教えを頂かしてもろうて、生き生きとした心で帰らせてもらうあの心だろうと思います。そういう例えば心がね、この大気のなかこの世の中この大気ですね。空気の中からですそれは朝鮮ニンジンで効く以上のものを吸収することが出来る朝鮮ニンジンという薬ではなくて、朝鮮ニンジンとは人が参る書いてある。
朝参りをするとか朝参りをするあの生き生きとした弾んだ心そして本気で有難うならして頂く、今日も有難い一日でありますようにと言う様な祈らしてもらう願わしてもらうそういう心というものはね。これは全てのものをここに吸収するその根が、これは朝鮮ニンジン以上のいわば神様のおかげが受けられる、という御理解を頂いた、そして又続きを頂きよった。特にあの広道先生がお届けに出てまいられました。昨日から下痢をして昨日一日休んでおりました今日おかげで御用が出来ておる。
まだ少し下痢をしておりますから、というお願いであった、だから私がもうsました「広道さんもうこうして下痢をする腹が痛むと言う時には、矢張りお腹の調子が悪い時だから、矢張り今まで硬い御飯食べよったなら、おかゆ御飯、今までお刺身も食べよった肉も食べよったろうけど、まあ梅干しにさせて頂く言う事に先ずならなきゃいけない。いわゆる自分の腹の中というか、胃腸と言うものを整えなければならない、君にはお粥に梅干しが一番、今ね私はこう言う事を頂いたというて、今の事を話させて頂いた。
とにかく皆さんあなた達が朝の御祈念に、私をあそこで控えておる私を四時の時間になりますと、襖を開いていうなら私を先導して下さる、あの時の気持ちというものがですあんたが学院におる時に少し信心がぶれ出しとった、あちらの先生から御注意を受ける位であった。けれども私はそれを言わなかった、ところが幹三郎が毎朝私について出て来る、安やら私をあそこに迎えに奉仕に出て来る。他の先生方の姿を見とる、自分もああいうおかげが頂きたいと思うておる。
そしてそのおかげを頂いたらもうそれこそ、今までの信心の怠慢な心というものは、どこへやら飛んでいってしまう、帰らして頂いたらもうそれこそ先生が、よっぽど親先生からやかましゅう言われただろうと思われる位に変わっち信心修行が出来た。あれなんですあの心がね、私共の例えばこのお金がないからお金を、不健康であるなら健康を、それこそ朝鮮人参以上の効果がいろいろな意味において、あの朝参りと言う事はその様に素晴らしい功徳があると言う事なのであります。
それから外にお参りがありましたから、それ頂いとったおとを忘れていたから又ちょっと合間にその事をお願いした、そしたらあの藤娘という人形なんかに、藤の花かたげておる姿の人形があります。あの人形の姿を頂くこれはね、朝参りをするそして自分の心の中に湧いてくる生き生きとした、しかもすがすがしい心、これこそこういう心でお心に当って行く、橋じていったら有難いと言う答えしか出ないと思われる様な心。
私はその藤娘の舞姿を見せて頂いてから思うた、例えばね○○さんあたしゃいっぺん下っておりましたけど、四時の御祈念頂いてから先生方が坐っておったから、そこに座って私が申しましたあの続きを又頂いたからと言うて話した、例えば藤の花といのは上から下へ咲くものだ、いうならば下から同じ見上げられる、でも下へ下へ下がる花なので言うならば御結界に座っておると、広道先生と言うて皆んなが一段と見上げてくれるのだ。そういう信心ではなくて同じ剣でも富士山のような。
同者の信心が一歩一歩頂上を目指して進んで行くと言う様な修行をこれから只今申します朝鮮人参的なおかげ、その二つが相まっていくところに本当のおかげが受けられるんだ。ないうしをえ浩させていただいたとして、私共がほんとに一歩一歩神様にいや富士山の山頂目指して進んで行く様な信心が必要である、何時もしゅぎょうへ極層をとっておかねばならない、いつも自分心の中に朝鮮人参的なおかげを頂かして貰うと言う事、先程今日光橋先生が前講をつとめておりましたが。
今日外から電話がかかってきた、ラジオ放送で合楽教会の光橋ミツカに依頼するという依頼がパスしました、ですから今度大祭の時には向こうであちらでお話をしてもらわなければならない、どうぞよろしくおお願いします。講題をあれを読まして頂いて「成り行きを大事に」という講題で話して頂くことになられた、という電話が掛って来た、有難いですね。最近合楽の信心がクローズアップされて来た、合楽で言うておる御事柄と言う事の素晴らしさに皆んながいわばびっくりしておる。
その前提として成り行きを大切にという、合楽で何拾年間言い続けてきた、それがです教務所の方では成り行きを大切にと言う、講題で話して頂く事になりましたと言うのである。そして先程しばらく時間先程先生と話したようにどこから現在の光橋先生の中に、毎日日参りうをしておるが旅費だってお初穂だって、御本部参拝の費用だってほんとは出る筈はないごたるところから、どこからともなし集まって来ると申されました。朝鮮人参なんですそこから吸収していきよる。
同時に家庭において信心のないものばかりの中で、まあ様々な修行もあろうけれどもそこに修行とそれとが相まって現在光橋先生が立ち行くところの、それはささやかなことでは御座いますっけれども、立ち行くおかげを頂いておるのである。四神様の御教えの中に、或る時にいざりの方がお参りしてきた、でお取次ぎをなさった、それで神様にお取次ぎをしたから立って見よと仰った、長年のいざりでございますから立つと言うて立てるごたるならお参りはしませんと言う訳です。
「立つ気にならなければおかげにならん」と仰った、大きな声で途端に立った。お互いがですお願いをしとるから、どうかなるじゃろうではなくて、お願をしたならもう頂く気にならねば駄目だと言う事です。御本部参拝をさして頂いたら、旅費の御繰り合わせを頂いたら、お参りをしよう位の事じゃ駄目。それこそお参り出来んなら、借金するところがないなら歩いてでも参ろうと言う位のね。もうどうでもというものがなからなければ、おかげを頂かれん。
それはおかげを頂くと言う事ではない、そこから頂くのが力である、その力が有難いものを吸収するのである、いよいよ御本部参拝もこの13日が御大祭ですから12日からでしょう。こちらの大祭も20日、いよいよ有難うさらせて頂かねばならない月である、今日はもういやが上にも、もうあっちこっちの部屋に菊の花いっぱいお供えが来ておる、見事な菊今日もここに菊の花を活けさして頂く時に、いろいろな台を持って来たけど、どうも花台がぴったりうつらない。
だから丁度この位ばかりの檜の板かなんかを削って、厚いとを作ってもらうといいね。今度はと言うて私はもう5時近くでしたが、その花を見ながら玉串あんの上にあげとるのを見て下がった。そしたら家内が、ちょっと先生見て下さいと言うから、私を炊事場の方へ連れて行きますもん、東京から木曽からから送って来とるというてね。木曽山中から東京の小西のお父さんから送って来とる訳です。
木曽からこの様に厚いいわゆるまな板と言う事じゃろう、大小様々なこの位のものともう沢山10数枚ありますでしょう、見事な桧板を送って来ておる。私は本当に驚いた、私はいまこれを言うてそれまで言うたばかりである。それから私は持って来てから、今言いよったのがもうここに来とるよと言うて、今敷かせて頂いとるのがそれでありますけれどもです、そういう例えばもう合楽では一分一厘間違いのない働きの中に、お互いがあるのです、ですからこちらの信心に間違いがなかったら。
立てと言ったら立つ気になったら立つのです。ばってんお願いはしとるばってん、そげん今日は立ち切るめと思うとるから立たんのです。だからそういう思いとてもです、矢張り稽古させて頂いた上にも、稽古させて頂いて生まれて来るものなのです。もう本当に先程から申します様に、神様の働きの一分一厘の間違いなさと言う事は、ある意味において凄まじいまでです。又は神様のこういう御恩恵の中にですおかげを頂いておるという事実をほんとにおかげと受けておるだけでは人にしてもです。
それが100の有り難さで受けられるようになり、500の1000万のと言う様にです。みなと同じ事柄でもそれを有難いと受けとめいける心を頂くと言う事が信心なのです。いよいよ御大祭が20日でございますから、大祭のための大祭であってはなりません。私共がね、有難うして有難うしてたまらんのが、いわゆる大祭と言う事になってこなければ、大祭の生き生きとした信心のおかげのお礼の心というかね。
それが私は有り難い合楽から頂くところの、悪い事を言うてまつな、生を楽しめとちから全てのことを、有難い有難いと受けて行けばと申しましたが、いまこの御理解を頂いておると、有難い有難いと受けて行けば、と言う事を申しましたが、今朝の御理解を頂いておると、有難い有難いとばかりでした。けない場合もある、御湿りの音を来ておると、どこまで深いか分らん有難いものが湧いてくるけれども。
ガチガチ鳴りなさる雷様のしたではそれこそもう、家が吹き倒れるかと思われるような大風からは、有難い心は生まれて来ませんけれども、それこそ身が縮むような思いで、お神様相済みませんというお詫びならできなければならない。もうガチガチ雷の鳴る時にはすみませんと、自分が反省していく以外にはない、もう家が吹き倒れる時にはそれこそこの地方の者のお願、本気で無礼を一生業却代わってお詫びをするような信心が要る。お詫びであり御礼である。これはお礼と同じ意味のあるものなのです。
有難い有難いで受けて行くと言う事とはその中に、お詫びもあればお礼もある、その中から育って行く縋っていくと言う事にならなければならんと思うのであります。それには先程から申しましたように、家族中のひとつの展間気というものが今日はそれを、或る家庭の現況と申しました。本当に親子が夫婦が奇ったなるどげん考えたっちゃおかげバイ、ほんとに神様働きっちゃ有難か、ほんとにすさまじいというてね、そういうお話が家の中で出来る雪園気をまずひとつ作らせて頂くおかげを頂きたいと思うですね。
どうぞ。